「分からなさ」に向き合う

 Podcastといえば、で必ず口端に上がる「COTEN RADIO」。歴史を面白く学べるという標語の通り、僕みたいに歴史に苦手意識があった人でも、ただ聞いているだけでも楽しく学べてしまうということで好評を博している。そんな有名Podcastの番外編にゲストで呼んでもらいました。

 実は、スピーカーを務める深井さんとはかれこれ10年来のお付き合いで、本当に、本当に色々な面でお世話になってきた。COTENという会社を立ち上げたときは「変わった社名だなあ」と思っていたが、やりたいことを聞いたときには輪をかけて「変わったことをしようとしてるなぁ! 」と思ったのが懐かしい。まさか、本当にその通りの事業を、これだけの人を巻き込んで進めていけるようになるとは。起業家というのは本当に尊い存在だなと思う。

 その尊い存在である起業家と向き合う際に、深井さんの問いを借りるとすれば、社会のリソースの分配が適切に行われていないのではないか [アロケーション問題]、そしてそれは金融資本主義によって歪められた結果ではないのか [コンセンサスコスト問題] ということに私達は応答していかないといけないと思った。

 そんなことを考えるきっかけとなったCOTENの資金調達に触れ、考えたことを少しまとめておきたい。(主に未上場の企業のお話です。)

起業家というリソースの浪費

 深井さんに限らずだが、スタートアップを始める起業家という存在は社会を前に進めるという意味において非常に重要だ。僕は経済学的には多分に右寄りであるので、企業の新陳代謝を担うのはいつだって新企業で、そのなかでも新しい結合関係を生み出すスタートアップは、革新のうえでも、雇用の創出という意味でも大切であると考えている。

 一方で、起業家という重要なリソースが、僕たちVCなどいわゆる支援者と呼ばれる存在によって浪費されてしまっているような現状もあるような気がしている。

 例えば、資金調達。これは起業家と同じ船に投資家が載せてもらうためには通らなくてはいけないプロセスだが、最も利益が相反するというか、それぞれの立場で様々な利害を調整していくことにもなる。VCの評価の一つに投資可否の決定スピードというのがあるが、時間をかければかけるほど起業家の目線に近づける気がする一方で、投資に至らない場合には起業家の時間を無駄にすることも少なくない。

 また、資金調達そのものが必要でない、もしくは調達がそもそも難しいようなビジネスモデルや課題解決に向き合っている起業家に、無理にスタートアップ的なやり方のみを指南するといったこともそうだ。エクイティでの調達はあくまで手段であって、目的の為に正しい手法でない限りは気軽に取るべき手段ではないことの方が多いと思う。
 結果として、VC等からの出資を受けてしまったがゆえに本来自身の実現したい世界からズレた挑戦をしつづけることとなり、心が折れてしまうようなケースも見てきた。その後、2度目の起業をしなければ、貴重な起業家という社会的リソースが失われてしまうことになる。

 Podcastでも触れたように、一度スタートアップモデルで成功してから、その余剰のお金で本当にやりたいことにチャレンジするんだ、というのも、本来であれば必要ない回り道なのかもしれない。

 社会をいまよりも良くするという事を考えている起業家が、そのままそこに向き合える方法はないのだろうか。

合意のための予測をする、という呪術的行為

 イノベーションという言葉を広めたヨーゼフ・シュンペーターは『経済発展の理論』のなかで資本主義は本質的に予測不可能であると指摘したが、それは古典派による「市場は一つの均衡点へと収束していくもの」というのはあくまで資本主義経済の一形態であり、企業家(邦訳原著の言葉を引用)という新しいチャレンジをする人間によって、均衡は崩される/いわゆる創造的破壊が起こることで予測不能な状態に絶えず移行していくと説明している。

 予測をするという点において、均衡しているというのは非常に都合が良い。投入量を変化させることによって擬似的に需要と価格の変化を観測、理論化することができ、そこからリソースの最適配分を計画することができるからだ。その計画通りに事が運べば、必ず予想通りの結果が帰ってくる。

 一方、そのような世界においては、金融リソースは儲けを生むことはなくなってしまう。誰が見ても正しい計画が存在するとして、そこに貸出を行うリスクは限りなく低く、金利を取る理由がなくなってしまうからだ。
 逆説的だが、金融というものが発展しているということは、計画が予測不可能さを常に孕んでいるということを意味しているとも言えそうだ。

 しかし、実際はどうだろう。多くのスタートアップが資金調達を行う際に初めて投げかけられたであろう「蓋然性」という言葉は、要するに計画の確実性を問う言葉だ。また、投資の判断のために、より大きく数字が伸びる計画を出してほしい、というのも似たような構造だ。計画が可能であり、それを実現するコミットメントがほしい、という前提がどうしてもその背後に存在する。本来的に、予測は不可能であるはずなのにだ。

 深井さんは、これを「呪術的な行為」と変わりないと言った。吉兆の目が出るまでサイコロを振るような、社会的な合意形成のプロセスから生まれた非理性的な行為という意味だ。亀の甲羅が右に割れれば自分たちの望む行動を起こせる、という時に、亀甲が右に割れるまで何度でも甲羅を火に焚べているのと変わらないと。

 僕たちは「ファンド」という投資のための資金を、LPと呼ばれる投資家から集めて運営している。そのため、常に投資家に対してのアカウンタビリティ/説明責任を果たす必要があるのだ。これは、ファンドに投資を行うという行為の背後にある合意形成のプロセスであり、事後的に、スタートアップへの投資のたびにこの説明責任を感じながら報告を行っている。
 その際に、僕たちは説明の簡便さから、投資候補先の数値計画や、その結果としてのリターン(ここでいうリターンとは、必ずしも金銭リターンに限らず、社会的インパクトやESGスコアのようなものも含む。)の大きさは理性的に説明ができ、一定の確率で実現できるものとしてお話することが多い。これを「呪術的」と言われると少しムッとする向きもあると思うが、より重要なのは、これが単なる合意形成のプロセスとしてだけでなく、その「呪術」に現実が引っ張られてしまうということが問題視されているのだ。

 呪術的に作成されたゴールから逆算されたKPIを追いかけ、差異があればそれを埋めるための施策を考え実行し、可能な限り描いた絵を実現するようなリソースの使い方をすることが求められるということは、何が悪いのだろうか? レスポンシビリティという点では非常に正しい行動に見えるが、問題なのはそもそもゴールが呪術的なプロセスを経て/より大きく伸びる絵として作られたものであり、それは本来起業家が描いていた理想の将来像とは異なる可能性がある、という点にある。本来この「呪術的なプロセス」は説明コストを下げるためのものであるはずなのに、それは次第に忘れさられ、元々望んでいたゴールとは違うものを追いかけるという構図に着地してしまうことが多発しているのだ。

 この「鉛筆を舐める」という行為は、本当に起業家とヴェンチャーキャピタル、その背後にいる投資家との合意形成に必要なのだろうか。

「分からなさ」は説明可能か

 今回、COTENの投資検討に際しては一般的に非常にコンサバティブと言われるような数値計画を元に投資委員会の資料を作成した。この計画においては、歴史のデータベースは売上にほとんど寄与していないと言っても過言ではない。もちろんこれがメインのシナリオとは思っておらず、数値計画に載らないような伸びしろがあると信じて投資を上申しているのだが、それをさも確実にできるかのようには扱わないという選択をしたのだ。
 その代わり、アップサイドやダウンサイドにはどのようなケースが存在しうるのか、という点には、様々な類似企業を引用することで説明を尽くそうとした。歴史のデータベースの活用可能性は多様であるということは伝えられたと思う。

 このプロセスを経るなかで「分からなさ」というのは、「どうなるか分からない」ということではなく、「どれになるか分からない」という状態にまで説明可能にすることができる、ということに僕は希望を見いだせるような気がしている。「どれになる」が網羅的ではない以上はこの2つには実質的に差がないようにも思うが、説明責任という意味では、一定程度は検討のプロセスでそれを果たせていると思うのだ。

 これは、説明可能性というものを呪術に引っ張られずに扱えるということであり、予測可能性が著しく低いようなチャレンジに対しても、説明責任を果たしつつ、分からないながらも投資を行える、という可能性そのものなのかも知れない。
 言葉にすると当たり前のように聞こえるし、実際、身体感覚としては当たり前なことなんだが、アカウンタビリティを前にすると、急に呪術に頼りたくなってしまうほどこの「分からなさ」というのは面妖な存在だ。

 Podcastでも触れたが、なにもすべての投資が「分からなさ」を前提にする必要は無いと思う。SaaSのようにメトリクスが確立されつつある領域では、精度の高い計画を作る意味が十分にあるだろう。予測のための計画を立てること自体も、私達のブログでも取り上げたように意味があると考えている。

 しかし、そのような計画が妥当そうな投資だけをするわけではない、という選択をすることによって、より投資対象となる範囲が広げられるかもしれないのだ。例えば、成功した後に(リスクの相対的に低い)手金でなにかの社会実装に取り組む、という遠回りも不要となるかもしれない。起業家という貴重なリソースが、本来的に命を燃やせる領域に最初からアロケートされるのは素晴らしい世界な気がする。
 それを実現するためには、金融の担い手である僕たちが、合意形成のプロセスにおいて、安易に理性的な予想が可能である、という呪術に頼らないということが大切であると思う。

 シュンペーターは、これを信用創造という言葉で説明し、それを実現するのが銀行家であると言った。本質的に僕たちは銀行家であらねばならず、「分からなさ」というものに頭を絞って立ち向かい、信用創造を行っていかなければならない。これが主流となったとき、より社会的に必要なことに投資が回るような世界が実現できるような気がしている。

 Podcastでは、僕たちがさも凄い投資をおこなったかのように言ってくれていたが、こういった思想で投資を行っているヴェンチャーキャピタルは、特にシード領域だと多いんじゃないかと思う。勿論、今回のCOTENのようなSeries Aでもそういった投資を行う方もいらっしゃる。そんな投資家のことを僕はとても尊敬しているし、僕自身も、そういった尊敬されるような投資を、もっともっと行っていかなければな、と。頑張ります。

深井さん : (リターンをどう出すかは) 四六時中考えてんだけど、それをコンセンサスのために作るロジックは呪術に突入しており、そんなに合理性がないので、考えても意味が無いしそこに引っ張られてもしょうがないから、「分からないもの」として投資してもらえませんかっていう。

渡辺 : その点ヴェンチャーキャピタルって凄い良くて、「10年間僕らに預けてください」って(ファンドを作る)一番最初にコンセンサスを取れるんですよ。その時に、例えば1割は「分からないもの」にも投資するっていうのがその場でコンセンサスが取れていれば、1件1件検討していくなかで「いやぁ、分かんないんすよ…」というのを滅茶苦茶コミュニケーション取る必要性が減る可能性があると思うんです。

スタートアップ・エコシステム試論 ──ビオトープを作ってはいけない

 ふとした時に辞書を引きたくなる。別に難しい言葉を調べるというだけではなくて、ありふれた日々の言葉を引いたりしている。普段僕らが何気なく使う言葉にも歴史があり、辞書を引くとその一端に触れられるのが嬉しいし、辞書を編んだ人たちの情念を思うと畏敬の念を抱くとともにこんな仕事をしてみたいとも思う。

 シニフィアンとシニフィエという言葉を覚えたのは確か大学1回生の頃だった。その時は手元に辞書を置いていなかったのでWeb辞典で調べたと思うのだけど、新しい言葉は、自分の世界への認知を拡大するので好きだ。日本語にすると「記号表現」と「記号内容」になるようだが、「私」という言葉や音そのものがシニフィアンであり、「私という主体」そのものやそのイメージのことをシニフィエと呼ぶ。普段使う言葉の多くはシニフィアン/つまり単語を聞けばその指すイメージ/シニフィエが共有されるので、逐一言葉の意味内容を説明しなくて良い。言葉というのは本当に凄い。
 それはしかし、概念として新しい言葉や普段使い慣れていない言葉についてはシニフィエ/つまり指す言葉の意味がズレたまま会話が進んでしまう可能性があるということでもある。

 僕たちは普段ヴェンチャーキャピタルという仕事を通じてスタートアップという新しい産業づくりに関わっていて、日々輸入されてくる新しい概念や言葉に振り回され、カタカナ言葉を使いがちと自虐したりするけれど、今日はそういう外来語について話したいのではない。どちらかというと、昔から知っている言葉なのに、しっかりと向き合えていないと感じている言葉について考えたいと思っている。

*耳で聴きたい方

エコシステムの自然さ

せいたい─けい 【生態系】

任意の一定空間に生育する生物群とそれらの生育を制御、または促進する諸要因を含むエネルギー収支上の複合体系。

小学館 [1973] 『日本国語大辞典』第十一巻

 これは家にある辞書で引いたエコシステム/生態系の定義だ。僕たちは、この自然の生態系になぞらえて「スタートアップ・エコシステム」というようなものが社会には必要なのでは、という問いを立てて活動をしてきた。これは経済学的にシリコンバレーのエコシステムを分析したマーティン・ケニーの著書『シリコンバレーは死んだか』に多大なる影響を受けている。

 ケニーはスタートアップを取り巻く経済活動のなかでいわばスタートアップそれ自体をプロダクトに見立て、起業家や役職員、VC、士業、行政、市民といった様々な人々がそれぞれの思惑で関わりながら、最終的に企業をパブリックなもの/つまり通常の経済活動の範囲に押し上げていくものとして捉えている。
 この2つの異なる経済活動をそれぞれ異なる経済目的を持つものとして取り上げ、シリコンバレーではこのスタートアップ経済圏と呼ばれるようなものが文化と相まってまるでエコシステムのように機能していると説いた。

 ここでいうエコシステムは、本来的な意味でのエコシステムに近い概念であると思う。つまり「エネルギー収支上の複合体系」であるということだ。

 もう少し噛み砕いてみよう。生態系におけるエネルギー収支というのは、炭素循環や水循環といった物質循環が行われている状態のことだ。つまり、生物が死に微生物に分解されて草木を育みやがて動物に還っていくといういわゆる食物連鎖や、山川を通り生き物の生活を潤した水がやがて海に流れ込み雲を作りまた地表に降り注ぐといった循環のことである。
 この循環は、(神というものの存在を除けば)誰かの意思を反映したものではない。あくまで自然の営みであり、人為的な作為が入るとしても、それは本来の循環を活かす、または阻害する要因を取り除くために行われる程度である。

 スタートアップのエコシステムは、作為的ではないのだろうか。

 経済というのは、古典的にはアダム・スミスの「見えざる手」に代表されるように、個々人の利の追求は自然と全体の調和に向かうという意味において、ある種のヒトという生き物が交換という概念を手に入れるなかで取引を効率化した結果の自然状態であるとも考えられる。
 シリコンバレーは、イノベーションの担い手としての意識が文化として定着しており、ここにスタートアップを製品のように扱う経済圏が合わさることで、それぞれが自身の利(ここでは必ずしも金融的な利だけに限らない)を追求するという自然な状態で、経済循環が起こっているように見える。つまり、作為やお膳立てされたシステムではなく、自然的なエコシステムであると言えると思うのだ。

ビオトープを作っていないか

 翻って自分たちの取り組みを見返した時に「スタートアップ・エコシステム」というシニフィアンは、同一の意味でのシニフィエを共有できているのだろうか。 僕たちは本当に皆が利の追求ができるような自然環境を作れているのだろうか。

 エコシステムと似たものとして、ビオトープを対置してみることで少し見えてくるものがあると思う。

「周辺地域から明確に区分できる性質を持った生息環境の地理的最小単位」であり、生態系とはこの点で区別される。

Wikipedia 『ビオトープ』 https://ja.wikipedia.org/wiki/ビオトープ

 ビオトープは、生態系のような物質の循環を含めた規模ではなく、ある意味で周辺から隔絶された環境で生き物が生息していけるような場所のことだ。いつか行きたいと思っている那須のアートビオトープ「水庭」は建築家の石上純也が作ったものであるが、「自然のランダムさ」を入念な計画のもと人為的に作るというアプローチを取っており、それはやはりエコシステム的な発想とは異なる。

 より身近な例としては学校に設置されたビオトープがあると思う。僕の記憶では、小学校のサッカーチームで遠征した先の学校に「ビオトープ」という看板があって気になって見に行ったのが最初だったように記憶している。苔が生し、水は抜かれた状態で、クモの巣かアリかしかいなくてガッカリした記憶だ。
 ビオトープの設置というのは自然教育において素晴らしいテーマである一方で人為的であるが故に手入れが必要で、つまり手入れをすること自体が自然に行われない限りはどこかでその継続が途絶える可能性がある。
 件の小学校もおそらくは生徒なのか先生なのか、ビオトープを手入れし続ける仕組みを作るにまでは至れなかったから廃墟となってしまったのだろうか。では仕組みがあれば良かったのだろうか。もう何十年も前のことなので残念ながら答えを知ることはできないが。

 この問いのなかで、僕は、いまスタートアップ・エコシステムと言われるものがビオトープとなっていないかという恐れと向き合っている。
 つまり、想いを持って手入れするヒトがいなくなった途端、不自然さ故にその環境自体が崩壊してしまわないかということだ。そして、自分たちの活動は、そういった不自然さを助長していないのか、ということだ。

スタートアップ振興のゴールとKPI

 僕たちは、福岡と宮崎を拠点に「地域にこだわった投資」を行うヴェンチャーキャピタルを運営している。スタートアップに投資を行いリターンを生み出すことが業務上の主要な活動だが、それを通じて雇用の生み出し手としてのスタートアップが地域に根ざし、地方にも多様な雇用が再分配されていく世界にするというのがこの事業を行う原動力だ。これは、誰に言われるでもなく、自分たちの利として自然に起こっている活動だと思う。
 地域で出会う起業家も、色々な理由はあるもののこの地で起業することは誰に頼まれたのでもなく自身の意志としてそれをスタートしている。それは地縁であったり事業上の利点であったりするが、これも自然なことだろう。

 一方で残念なことに東京やシリコンバレーのようなスタートアップ集積地で起業するのに比べて、いくつかのデメリットも存在するのが地方の常だ。
 例えば僕が福岡に来た10年前はまだシード期のファイナンスギャップが大きく、そもそもスタートアップするための資金やノウハウやチームメンバーは東京にいかないと手に入りにくいという時期だった。その時期に上京するのは自然なことだったと思う。
 なので、地域で行われていた起業家が集まるようなイベントの力を借りたり、僕たちは僕たちで地元で投資を行うという活動によって少しづつその障壁を取り除いていき、自然とこの地で起業できるような土壌を育んできた。福岡のファイナンスギャップは小さくなってきたと感じるが、一歩別の九州各県に行くとまだまだ根強い課題として残っている。

 また最近はスタートアップ推進が各地で盛り上がっており、まるで地方創生の打ち出の小槌のように扱われているように感じることも多い。多くのケースでは調達社数や調達金額がKPIとして設定され、いかに彼の地がスタートアップに適しているかをPRしている。しかし、そのKPIを追いかけた先に、スタートアップ・エコシステムというゴールの達成はあり得るのだろうか。

 今の地方でのスタートアップ環境は、10年前に比べて格段に良くなった。東京大学のFound Xのように日本語で手に入るWeb情報の質は上がったし、地域でのスタートアップ経験者も増えてきた。何より「地方発」であることをモチベーションの源泉に持つ人が増えてきていることも感じている。
 例えば福岡県は全国比で4%の人口比を有しており、調達したスタートアップの数は全国比で3%ととても健闘している。(ちなみに東京は11%の人口比に対して調達したスタートアップ比は73%だ。) これは行政によるスタートアップ都市としての努力もある一方で、しかし、やはりその根底には、地方におけるメリットを追求するというよりも起業家自身の内発的な動機や個人的な利の追求があるように思うのだ。

 エコシステムというものを作ろうとしたとき、この「起業家の利の追求」はどこに向かっているのかを、立ち止まって、もっと考える必要があるのではないだろうか。

 KPIを追いかけた支援の体制を整えるなかで、短期的には一定の成果(これは先行指標としてのKPIの事を指している)は達成される可能性がある。しかし、長期的にみたエコシステムの形成という成果に結びつけるには、ビオトープを作ってはいけない。それぞれが自然に振る舞える環境を作るための、必要最低限の人為がある状態を作らなくてはならないのではないだろうか。投資家や支援者が設定する目標に寄るのではなく、起業家自身の芯に僕たちは近づく必要がある。

 これが、僕がいま思うスタートアップ・エコシステムに対する見解だ。

 自然な状態でないと、継続するためのエネルギーが常に外部から必要となる。エネルギー収支が合っていないのだ。そして、いつかそれは途切れかねない。これは地域にとって非常にネガティブだと思う。また、そのエネルギーが金融的な利だけを元に生成されている場合も、行き過ぎた結果を招くという意味で積極的には採用し辛い。一方、それぞれが異なる意思を持って活動している以上、わかりやすい答えも存在しない。
 なので、我々はもっと「地域の起業家」の声に耳を澄ませないといけないと思う。それがまだ言葉になっていなくても、だ。

不自然さを消すためだけに人の手を入れる

 ビオトープといえば、一つ素晴らしい例を紹介しておきたい。北九州市の工場街に位置する響灘ビオトープだ。
 産業廃棄物の処理場として整備された埋立地だったものが、土を被せて整地するのを10年放置していたら気づけば生物多様性の拠点となっていた。適度に人が来ず、不整地故に様々な環境が生まれ、動植物にとって生態系を作っていくための条件がうまく揃った奇跡のような場所だ。その環境を後世に残すために覆土工事の計画を変更したうえで、現在はビオトープとして保護がなされている。

 人為が悪いのではない。エコシステムの萌芽が生まれた時に、それを邪魔せず、更に伸ばすために最低限の促進策を打つという順番が必要なのだろう。

 地方というデメリットを薄めるためには、熱意を持った人の手が加わるのは仕方がないと思う。しかし、それが継続の前提になるのはエコシステムという観点でみた時に健全ではない。
 響灘のようなカオスから奇跡を生み出すのは難しいかもしれないが、常に「エコシステム」という言葉を使うときには、その意味内容/シニフィエにもきちんと目を向けていきたい。

 更に言えば、社会をより良くする担い手はスタートアップだけに限らない。担い手となる起業家や社会起業家、NPOの発起人など、それぞれが何を利とするのかが違うし、それは社会の変化によっても変わっていくものだ。スタートアップ・エコシステムがガラパゴスになることで多様になるのも良いかもしれないが、響灘がそうであったように、最初はエコシステム間を越境する鳥が種を運ぶかの如く、色々な社会の担い手たちが、お互いに影響を与え合い、より多様な生態系を生み出していけると良いなと思う。

 僕はと言うと、福岡はカオスからエコシステムの萌芽が生まれた奇跡のような街だと思っていて、これを後世に残すためにより大きく、またしなやかになるような活動を模索しつつ、まさに越境する鳥のように、福岡以外の九州各地に種を運ぶようなことをしたいと思っている。今年も残り数ヶ月、頑張ります。

p.s.

弊Podcastでも喋ってるので、こちらも併せてどうぞ。