ふとした時に辞書を引きたくなる。別に難しい言葉を調べるというだけではなくて、ありふれた日々の言葉を引いたりしている。普段僕らが何気なく使う言葉にも歴史があり、辞書を引くとその一端に触れられるのが嬉しいし、辞書を編んだ人たちの情念を思うと畏敬の念を抱くとともにこんな仕事をしてみたいとも思う。
シニフィアンとシニフィエという言葉を覚えたのは確か大学1回生の頃だった。その時は手元に辞書を置いていなかったのでWeb辞典で調べたと思うのだけど、新しい言葉は、自分の世界への認知を拡大するので好きだ。日本語にすると「記号表現」と「記号内容」になるようだが、「私」という言葉や音そのものがシニフィアンであり、「私という主体」そのものやそのイメージのことをシニフィエと呼ぶ。普段使う言葉の多くはシニフィアン/つまり単語を聞けばその指すイメージ/シニフィエが共有されるので、逐一言葉の意味内容を説明しなくて良い。言葉というのは本当に凄い。
それはしかし、概念として新しい言葉や普段使い慣れていない言葉についてはシニフィエ/つまり指す言葉の意味がズレたまま会話が進んでしまう可能性があるということでもある。
僕たちは普段ヴェンチャーキャピタルという仕事を通じてスタートアップという新しい産業づくりに関わっていて、日々輸入されてくる新しい概念や言葉に振り回され、カタカナ言葉を使いがちと自虐したりするけれど、今日はそういう外来語について話したいのではない。どちらかというと、昔から知っている言葉なのに、しっかりと向き合えていないと感じている言葉について考えたいと思っている。
*耳で聴きたい方
エコシステムの自然さ
せいたい─けい 【生態系】
任意の一定空間に生育する生物群とそれらの生育を制御、または促進する諸要因を含むエネルギー収支上の複合体系。
小学館 [1973] 『日本国語大辞典』第十一巻
これは家にある辞書で引いたエコシステム/生態系の定義だ。僕たちは、この自然の生態系になぞらえて「スタートアップ・エコシステム」というようなものが社会には必要なのでは、という問いを立てて活動をしてきた。これは経済学的にシリコンバレーのエコシステムを分析したマーティン・ケニーの著書『シリコンバレーは死んだか』に多大なる影響を受けている。
ケニーはスタートアップを取り巻く経済活動のなかでいわばスタートアップそれ自体をプロダクトに見立て、起業家や役職員、VC、士業、行政、市民といった様々な人々がそれぞれの思惑で関わりながら、最終的に企業をパブリックなもの/つまり通常の経済活動の範囲に押し上げていくものとして捉えている。
この2つの異なる経済活動をそれぞれ異なる経済目的を持つものとして取り上げ、シリコンバレーではこのスタートアップ経済圏と呼ばれるようなものが文化と相まってまるでエコシステムのように機能していると説いた。
ここでいうエコシステムは、本来的な意味でのエコシステムに近い概念であると思う。つまり「エネルギー収支上の複合体系」であるということだ。
もう少し噛み砕いてみよう。生態系におけるエネルギー収支というのは、炭素循環や水循環といった物質循環が行われている状態のことだ。つまり、生物が死に微生物に分解されて草木を育みやがて動物に還っていくといういわゆる食物連鎖や、山川を通り生き物の生活を潤した水がやがて海に流れ込み雲を作りまた地表に降り注ぐといった循環のことである。
この循環は、(神というものの存在を除けば)誰かの意思を反映したものではない。あくまで自然の営みであり、人為的な作為が入るとしても、それは本来の循環を活かす、または阻害する要因を取り除くために行われる程度である。
スタートアップのエコシステムは、作為的ではないのだろうか。
経済というのは、古典的にはアダム・スミスの「見えざる手」に代表されるように、個々人の利の追求は自然と全体の調和に向かうという意味において、ある種のヒトという生き物が交換という概念を手に入れるなかで取引を効率化した結果の自然状態であるとも考えられる。
シリコンバレーは、イノベーションの担い手としての意識が文化として定着しており、ここにスタートアップを製品のように扱う経済圏が合わさることで、それぞれが自身の利(ここでは必ずしも金融的な利だけに限らない)を追求するという自然な状態で、経済循環が起こっているように見える。つまり、作為やお膳立てされたシステムではなく、自然的なエコシステムであると言えると思うのだ。
ビオトープを作っていないか
翻って自分たちの取り組みを見返した時に「スタートアップ・エコシステム」というシニフィアンは、同一の意味でのシニフィエを共有できているのだろうか。 僕たちは本当に皆が利の追求ができるような自然環境を作れているのだろうか。
エコシステムと似たものとして、ビオトープを対置してみることで少し見えてくるものがあると思う。
「周辺地域から明確に区分できる性質を持った生息環境の地理的最小単位」であり、生態系とはこの点で区別される。
Wikipedia 『ビオトープ』 https://ja.wikipedia.org/wiki/ビオトープ
ビオトープは、生態系のような物質の循環を含めた規模ではなく、ある意味で周辺から隔絶された環境で生き物が生息していけるような場所のことだ。いつか行きたいと思っている那須のアートビオトープ「水庭」は建築家の石上純也が作ったものであるが、「自然のランダムさ」を入念な計画のもと人為的に作るというアプローチを取っており、それはやはりエコシステム的な発想とは異なる。
より身近な例としては学校に設置されたビオトープがあると思う。僕の記憶では、小学校のサッカーチームで遠征した先の学校に「ビオトープ」という看板があって気になって見に行ったのが最初だったように記憶している。苔が生し、水は抜かれた状態で、クモの巣かアリかしかいなくてガッカリした記憶だ。
ビオトープの設置というのは自然教育において素晴らしいテーマである一方で人為的であるが故に手入れが必要で、つまり手入れをすること自体が自然に行われない限りはどこかでその継続が途絶える可能性がある。
件の小学校もおそらくは生徒なのか先生なのか、ビオトープを手入れし続ける仕組みを作るにまでは至れなかったから廃墟となってしまったのだろうか。では仕組みがあれば良かったのだろうか。もう何十年も前のことなので残念ながら答えを知ることはできないが。
この問いのなかで、僕は、いまスタートアップ・エコシステムと言われるものがビオトープとなっていないかという恐れと向き合っている。
つまり、想いを持って手入れするヒトがいなくなった途端、不自然さ故にその環境自体が崩壊してしまわないかということだ。そして、自分たちの活動は、そういった不自然さを助長していないのか、ということだ。
スタートアップ振興のゴールとKPI
僕たちは、福岡と宮崎を拠点に「地域にこだわった投資」を行うヴェンチャーキャピタルを運営している。スタートアップに投資を行いリターンを生み出すことが業務上の主要な活動だが、それを通じて雇用の生み出し手としてのスタートアップが地域に根ざし、地方にも多様な雇用が再分配されていく世界にするというのがこの事業を行う原動力だ。これは、誰に言われるでもなく、自分たちの利として自然に起こっている活動だと思う。
地域で出会う起業家も、色々な理由はあるもののこの地で起業することは誰に頼まれたのでもなく自身の意志としてそれをスタートしている。それは地縁であったり事業上の利点であったりするが、これも自然なことだろう。
一方で残念なことに東京やシリコンバレーのようなスタートアップ集積地で起業するのに比べて、いくつかのデメリットも存在するのが地方の常だ。
例えば僕が福岡に来た10年前はまだシード期のファイナンスギャップが大きく、そもそもスタートアップするための資金やノウハウやチームメンバーは東京にいかないと手に入りにくいという時期だった。その時期に上京するのは自然なことだったと思う。
なので、地域で行われていた起業家が集まるようなイベントの力を借りたり、僕たちは僕たちで地元で投資を行うという活動によって少しづつその障壁を取り除いていき、自然とこの地で起業できるような土壌を育んできた。福岡のファイナンスギャップは小さくなってきたと感じるが、一歩別の九州各県に行くとまだまだ根強い課題として残っている。
また最近はスタートアップ推進が各地で盛り上がっており、まるで地方創生の打ち出の小槌のように扱われているように感じることも多い。多くのケースでは調達社数や調達金額がKPIとして設定され、いかに彼の地がスタートアップに適しているかをPRしている。しかし、そのKPIを追いかけた先に、スタートアップ・エコシステムというゴールの達成はあり得るのだろうか。
今の地方でのスタートアップ環境は、10年前に比べて格段に良くなった。東京大学のFound Xのように日本語で手に入るWeb情報の質は上がったし、地域でのスタートアップ経験者も増えてきた。何より「地方発」であることをモチベーションの源泉に持つ人が増えてきていることも感じている。
例えば福岡県は全国比で4%の人口比を有しており、調達したスタートアップの数は全国比で3%ととても健闘している。(ちなみに東京は11%の人口比に対して調達したスタートアップ比は73%だ。) これは行政によるスタートアップ都市としての努力もある一方で、しかし、やはりその根底には、地方におけるメリットを追求するというよりも起業家自身の内発的な動機や個人的な利の追求があるように思うのだ。
エコシステムというものを作ろうとしたとき、この「起業家の利の追求」はどこに向かっているのかを、立ち止まって、もっと考える必要があるのではないだろうか。
KPIを追いかけた支援の体制を整えるなかで、短期的には一定の成果(これは先行指標としてのKPIの事を指している)は達成される可能性がある。しかし、長期的にみたエコシステムの形成という成果に結びつけるには、ビオトープを作ってはいけない。それぞれが自然に振る舞える環境を作るための、必要最低限の人為がある状態を作らなくてはならないのではないだろうか。投資家や支援者が設定する目標に寄るのではなく、起業家自身の芯に僕たちは近づく必要がある。
これが、僕がいま思うスタートアップ・エコシステムに対する見解だ。
自然な状態でないと、継続するためのエネルギーが常に外部から必要となる。エネルギー収支が合っていないのだ。そして、いつかそれは途切れかねない。これは地域にとって非常にネガティブだと思う。また、そのエネルギーが金融的な利だけを元に生成されている場合も、行き過ぎた結果を招くという意味で積極的には採用し辛い。一方、それぞれが異なる意思を持って活動している以上、わかりやすい答えも存在しない。
なので、我々はもっと「地域の起業家」の声に耳を澄ませないといけないと思う。それがまだ言葉になっていなくても、だ。
不自然さを消すためだけに人の手を入れる
ビオトープといえば、一つ素晴らしい例を紹介しておきたい。北九州市の工場街に位置する響灘ビオトープだ。
産業廃棄物の処理場として整備された埋立地だったものが、土を被せて整地するのを10年放置していたら気づけば生物多様性の拠点となっていた。適度に人が来ず、不整地故に様々な環境が生まれ、動植物にとって生態系を作っていくための条件がうまく揃った奇跡のような場所だ。その環境を後世に残すために覆土工事の計画を変更したうえで、現在はビオトープとして保護がなされている。
人為が悪いのではない。エコシステムの萌芽が生まれた時に、それを邪魔せず、更に伸ばすために最低限の促進策を打つという順番が必要なのだろう。
地方というデメリットを薄めるためには、熱意を持った人の手が加わるのは仕方がないと思う。しかし、それが継続の前提になるのはエコシステムという観点でみた時に健全ではない。
響灘のようなカオスから奇跡を生み出すのは難しいかもしれないが、常に「エコシステム」という言葉を使うときには、その意味内容/シニフィエにもきちんと目を向けていきたい。
更に言えば、社会をより良くする担い手はスタートアップだけに限らない。担い手となる起業家や社会起業家、NPOの発起人など、それぞれが何を利とするのかが違うし、それは社会の変化によっても変わっていくものだ。スタートアップ・エコシステムがガラパゴスになることで多様になるのも良いかもしれないが、響灘がそうであったように、最初はエコシステム間を越境する鳥が種を運ぶかの如く、色々な社会の担い手たちが、お互いに影響を与え合い、より多様な生態系を生み出していけると良いなと思う。
僕はと言うと、福岡はカオスからエコシステムの萌芽が生まれた奇跡のような街だと思っていて、これを後世に残すためにより大きく、またしなやかになるような活動を模索しつつ、まさに越境する鳥のように、福岡以外の九州各地に種を運ぶようなことをしたいと思っている。今年も残り数ヶ月、頑張ります。
p.s.
弊Podcastでも喋ってるので、こちらも併せてどうぞ。